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当地の医聖として「古香堂」に今も祭られている藤野昌言(守誠)は天保3年(1832年)の生まれで、その実弟である内海卓爾(天保11年1月生)は、かの緒方洪庵の「適塾」に学び(安政6年3月14日入塾)慶應3年廣谷村伊豆谷木曾丸で開業し、明治32年6月25日60才で没している史実から、明治期における内海卓爾の医師会との係わり合いが問われるところであるが残念ながら現在資料の上では明らかにするものがない。
また文化13年(1816年)府中で生まれ紀州華岡医塾で学び元治元年(1864年)家業を継ぎ川原町で開業した甲斐玄硯は、明治7年引退し明治22年(1889年)73才で没したと記録されている。
明治6年7月従来の自宅開業禁止令が出され、明治9年に医師開業試験規則が制定された。それまでも蘭学の流れを汲む西洋医学が取り入れられてはいたが、ここにおいて旧来の東洋医学を修めた漢方医の医師としての道が閉ざされたのである。一方で明治10年(1877年)には奉職履歴医の資格を認めながら明治12年(1879年)に医師試験規則が公布され、明治16年(1883年)医師免許規則、医師試験規則が制定された。明治26年には漢方医達に免許証を交付するよう復権運動として出された「医師免許規則改正法案」が当時の内務省衛生局長であった後藤新平により頓挫させられた経緯はあるものの、ここにわが国における現代医学の主流が「西洋医学」の道を歩むことが明確となり、公の認める医師の基準が確立されたのである。因みに医師免許規則、医師試験規則に沿って発行された医師免許証は明治17年に発行されたと考えられ、この時点で当地域において西洋医学に対する奉職履歴医として登録された有福玄東は36歳、浅田一郎が32歳、戸田 保21歳で、この年大阪医学校を卒業し新しい制度により第229号という若い番号で医籍に登録された難波 貢は22歳であった。開国以来、疫病の流行に脅かされ、明治以降、我が国のコレラ流行は記録によれば明治10年、12年、15年、19年、23年、28年と数年間隔で発生しており、藤野昌言(守誠)が自らもコレラに殉じたのは明治12年の流行時のことであった。明治30年(1897年)、伝染病予防法及び汽車、船舶検疫規則が制定され、続く32年海港検疫法が整備されるにいたり、ようやく終息をみるのである。ロベルト・コッホがコレラ菌を分離したのは明治18年(1884年)のことであり、コッホと論争をしたペッテンコーフェルがコッホの培養したコレラ菌を学者の前でのんでみせたのはそれ以後のことであることをみても、当時の医療が暗中模索の状態にあり、国民全般に衛生思想の啓蒙が行き渡っていない当時として、通行、移動の自由を制限し、時には土地物件の収用もはからねばならなかった時代としては、警察権の発動を要したであろうことは想像に難くない。明治この方、我が国の防疫行政は内務省の管轄であり、現在の厚生労働省の前身である厚生省が設立されるのはずっと後の昭和12年(1937年)のことである。その執行は戦後、昭和23年新保健所法が施行されるまで地方の警察によって施行されていたのが実状である。
伝染病の対応策として医師の結束を求める要求は医師の使命感から連帯が自然発生したというより、むしろ行政側からの求めに応じて結集されたきらいがある。明治21年(1888年)品治郡医会が創立されており、この時点の副会長が藤井信純であるとの記載があるが、会長名及び医師総数は不明である。明治24年6月広島県知事 鍋島 幹は「伝染病予防法の徹底を期するため、広島県医会の設置を要望する」旨の通達を各郡医会長に出した。これに応えるかたちで広島県医会が設立され明治25年3月19日から21日の3日間広島市の広島偕行社で設立総会が開かれた。この時、県の登録医数319名であり、そのうち芦田郡2名、品治郡2名が記録されている。
明治26年4月第二回総会後日清戦争で中断され、明治30年4月第三回総会が開かれている。明治31年1月13日広島県警察部に衛生課が新設、保安課から移された。明治32年(1899年)芦品郡医会が設立され、その間学術研究団体として芸備医学会が明治29年に設立され活動していたが、開業医が任意入会であるため郡医会との関係も重複し不明確であるとのことで、明治35年7月25日県医会常務委員会で「県医会を廃止して、医会規則に準する郡市連合医会を開設する」こととなった。明治36年3月15日から16日まで郡市連合医会創立総会が広島市下中町「広島医会会場」で開催され、「加盟開業医名簿」によると、県下2市16郡のうち2市13郡から721名が登録されており、明治36年の芦品郡医会会長として甲斐仙太の名前が記録されている。この当時、他の資料に藤野昌言の妻あさは前記甲斐玄硯の娘であり、その実弟で「芦品郡府中町 私立回生病院 甲斐恭造」という記述もみられるが、下記甲斐素一、甲斐四郎との4名の甲斐姓医師の各人の正確な続縁関係は現時点で明確にすることが出来なかった。なお、藤野昌言の子息藤野精三は大阪医学校を卒業後、神戸日本赤十字病院外科に勤務後当地で開業し明治39年(1906年)32才で逝去している。藤野家建造物のその後の賃貸の歴史からみると杉原某、甲斐素一、俵順命、梅田某(眼科)、畠山拓一、久保田音一と昭和初期まで引き継がれ地域医療機関としての役割を担ってきた建物であることがわかり、名簿の隙間に見え隠れする医療人の活躍がしのばれる。なお任意団体である芸備医学会は現存入手可能な名簿の最古のものは明治39年12月号「芸備醫亊」第127号(第11年第12号)掲載のものであり芦品郡は井上 晃(坊寺村)井上英一(近田村)小野虎雄(網引村)小野田晋哉(金丸村)甲斐素一(府中町)甲斐四郎(府中町)河村秀三(有磨村)難波 貢(河佐村)桑田敏行(府中町)藤井省三(倉光村)藤井恭三(府中町)木村良純(府中町)の12名となっている。
明治39年5月2日「医師法」が公布され、明治39年11月17日「医師会規則」が制定された。これにより郡・市医会及び郡市連合医会も改組解体され、明治40年7月内務省令に基づく芦品郡医師会が発足した。この時の芦品郡医師会の会員数は12名と記録されている。翌明治41年9月より会長は藤井恭三となり記録によると3期会長職を務めた。この年の芸備医学会名簿から難波 貢の住所が(出口町1094)に変更されている。明治42年甲斐四郎の住所が(廣谷村字本山)となり、明治43年以降名簿から名前が消えている。明治44年梶田敬三(府中町)大正元年岡田重一(福相村)後藤許太郎(新市町)阿部正(府中町)の芸備医学会入会が記載されている。大正8年の医師法改正により医師会の設立も勅令による強制設立になるが任意設立強制加入というかたちで法定医師会が発足したのである。このことが後々まで日本医師会の体質の中に地方医師会の自発的意志表示による活動より、むしろ上意下達を主とする風潮を生む要因となったとも考えられる。大正9年3月から医師会長は難波
貢、会員数は32名、翌大正10年4月1日の会員数は27名である。大正10年の芸備医学会の入会者名簿に唐川武夫(国府村)今川壽夫(大正村)長 委三美(大正村)の名前がみられる。しかし芸備医学会はその後伸びが止まり、会員数の増加もみられず、会員数は減少し昭和17年11月末時点の芦品郡の会員は梶田敬三 岡田重一郎 三島準一 長 委三美 今川壽夫の5名のみとなっている。大正11年10月医師会長は木村良純となり、大正14年4月1日時点の「広島県医師会名簿」に掲載されている芦品郡の部では会員数は30名である。その名簿には草浦 覚(駅家村) 藤井純男(駅家村) 井上 晃(駅家村) 樋上士六(服部村) 井上英一(近田村) 池田欸従(戸手村) 三島準一(網引村) 黒瀬藤一郎(網引村) 内田智晃(常金丸村) 岡田重一郎(福相村) 戸田 保(有磨村) 梶田乾吉(新市町) 唐川武夫(国府村) 後藤許太郎(新市町) 浅田一郎(岩谷村) 今川寿夫(大正村) 池田邦恵(大正村) 阿部正(府中町) 森信 岩(廣谷村) 木村良恭(府中町) 藤井恭三(府中町) 畠山拓一(府中町) 藤井彰純(府中町) 中川敬雄(府中町) 梶田敏三(府中町) 難波 貢(府中町) 長 委三美(大正村) 宮本幸七(阿字村) 高田 弘(宜山村) 石井廣(宜山村)が掲載されている。なお同じ大正14年日本医籍録初版に記載されている芦品郡の医師名は{( )内は住所、開業年を示す}、井上 晃(駅家村坊千 明治24年) 井上英一(近田村 明治35年) 今川壽夫(大正村桑木) 池田欸従(戸手村 大正4年) 石井 廣(宜山村 大正13年) 畠山拓一(府中 大正11年) 戸田 保(有磨村齋地 明治19年) 岡田重一郎(福相村 明治35年) 河村秀三(府中町) 梶田乾吉(新市町 大正11年)梶田敏三(府中町 明治44年) 唐川武夫(国府村中須 大正4年) 吉岡鶴一(栗生村) 高田 弘(宜山村大橋 大正10年) 中川敬雄(府中町 大正3年) 中村一夫(出口町) 長 委三美(大正村木野山 大正10年) 難波 貢(出口町 明治19年) 内田智晃(常金丸 明治44年) 黒瀬藤一郎(網引村 明治39年) 草浦 覚(駅家村 大正3年) 藤井恭三(府中町 明治30年) 藤井彰純(府中町 大正4年) 藤井純男(駅家村 大正12年) 後藤許太郎(新市町 明治31年) 安部正(府中町 明治39年) 有福玄東(服部村) 浅田一郎(岩谷村荒谷) 木村良純(府中町 明治39年) 木村良恭(府中町 大正2年) 宮本幸七(阿字村) 三島準一(網引村宮内 大正2年) 森信 岩(廣谷村 大正12年)の33名でありこの員数のずれは調査時期の差によるものか現在のA会員に相当する医師のみを会員としたものか現時点においてはいずれかの信憑性を確かめる術を持たない。
昭和5年発行の日本医籍録では芦品郡の医師名は、井上英一(近田村 明治35年) 池田欸従(戸手村 大正4年) 石井廣(宜山村 大正9年) 細川 勇(廣谷村 昭和2〜3年) 戸田 保(有磨村 明治17年) 小田直衛(有磨村 大正15年) 大塚亮三(府中町 昭和3年) 岡田重一郎(福相村 明治35年) 長 委三美(大正村 大正10年) 梶田乾吉(新市町 大正11年) 梶田敏三(府中町 明治44年) 唐川武夫(国府村 大正7年) 高田 弘(宜山村 大正10年) 中川敬雄(府中町 大正3年) 難波 貢(府中町 明治19年) 難波逸二(府中町) 内田智晃(常金丸 明治44年) 久保田音一(府中町 昭和元年) 黒瀬藤一郎(網引村 明治39年) 草浦 覚(駅家村 大正3年) 藤井彰純(府中町 大正4年) 後藤許太郎(新市町 明治31年) 安部正(府中町 明治39年) 佐伯 亨(府中町 昭和4年) 三島準一(網引村 大正2年) 樋上士六(服部村 大正14年) 森信 岩(廣谷村 大正12年)の27名が記載されている。その後、新制医師会の発足までに田邊傳二(府中町 昭和6年難波医院後昭和10年現在地) 福場正登(府中町) 瀬尾 仁(新市町 昭和8年) 奥野朝三郎(府中町) 鍋島清志(府中町 昭和16年難波医院後)がそれぞれ開業している。医師会長職は昭和9年4月井上英一となり、昭和9年10月安部正に代わっている。昭和12年の会員数は31名、昭和13年10月岡田重一郎となり会員数は同じく31名と記録されている。翌昭和14年は総医員数34名、応召会員5名、現存会員数25名と報告されている。昭和15年11月後藤許太郎に医師会長職は引き継がれた。この間に昭和6年、難波 貢の死亡にともない、その後難波医院の診療は田邊傳二、豊田志郎、鍋島清志により一時期引き継がれたが、昭和20年代になって難波富三郎が帰るまで難波家による後継者が一時期途絶えたため、計画途上でやむなく利用されなくなった府中町池の上500番地の施設及び土地いっさいを昭和9年マサ代未亡人が府中町に寄贈し昭和11年4月10日病床数20床の府中町立病院が開設された。初代院長は菅 竜生である。
昭和12年(1937年)厚生省が設立され保健所(昭和11年(1936年)保健所法が公布)が立ち上げられ、昭和13年(1938年)福山保健所が広島県で最初の保健所として設置され福山市、深安郡を管轄下におき、後沼隈郡の一部を所管とした。昭和19年(1944年)府中保健所が設置され芦品郡及び御調郡の一部を管轄した。
昭和12年(1937年)7月廬溝橋に端を発した日中戦争の勃発により当地区からも軍医として応召される医師も多く、昭和14年(1939年)の統計では地区医師会員30名の内、応召会員5名を数えている。戦時下体制下の医師会活動に関する具体的資料は乏しく、昭和16年(1941年)には太平洋戦争が勃発し昭和17年2月24日広島県医師会芦品郡支部が設立され、昭和17年8月22日「医療及保健指導の改良発達を図り国民体力の向上に関する国策に協力するをもって目的としたること」とした新医師会令が公布された。戦後の改革までの最後の医師会長として昭和18年三島準一会長が選出された。戦域の拡大と制空権、制海権を次第に失ったわが国は医療物資の調達もおもうにまかせない状況にいたり、昭和18年12月10日(1943年)医薬品衛生材料配給機構が作られ医師隣り組み「医師隣保」が組織され、芦品医師会は東部と西部に分けられた。東部の責任者は梶田敏三で大正村、河佐村、岩谷村、府中町、広谷村、常金丸村、藤尾村を、西部は責任者を三島準一として新市町、網引村、有磨村、福相村、近田村、宜山村、駅家町、栗柄村、国府村、服部村、戸手村を結集したものであった。三島準一会長が出征中の田邊医院の留守の診療を年余にわたり援助したとの逸話も残っており、互助活動が行われていたことが推察される。資材の欠乏、応召による人的資源の枯渇に加え施設の老朽化のため当時地域の中核的医療機関の役目をになっていた府中町立病院は経営困難となり、土地、建物一切を広島県農業会(現在の広島県厚生農業協同組合連合会)に売却移管し準備期間を経て昭和19年2月1日広島県農業会府中病院として発足した。初代院長は平松義忠、副院長は奥野正二であった。昭和20年耳鼻科に熊野武雄、眼科に藤原俊行、小児科に金丸米子が各々着任し戦時下医療をになった。戦時体制で軍需産業の一翼を担い学徒動員を受け容れていた当時の(株)北川鉄工所も1,700人の従業員をかかえ昭和19年11月10日社内に附属診療所を開設し、初代の院長は小林壽郎であり、これが後の北川病院となった。その後戦局は次第に逼迫し昭和20年8月6日(1945年)広島市に原子爆弾が投下され、続く8日午後9時福山大空襲にみまわれ当地からも医療の応援要請により広島県医師会芦品郡支部救護班が結成され8月7日未明、梶田乾吉、瀬尾 仁の医師と福井、福島及び高垣の3名の看護婦が第一陣として広島に派遣された。その後も唐川武夫、平松義忠、奥野正二、大塚亮三などの派遣が続いた。昭和20年8月15日わが国はポツダム宣言を受託し、ここに戦争の終結をむかえたのである。その年の枕崎台風により9月17日河面の福塩線鉄橋の流出により一挙に下流に流れた濁流により府中から新市にかけ堤防が各所に決壊し芦田川水域は大洪水にみまわれた。国破れて山河も流され、外地引き揚げ者による発疹チフス、コレラ禍に加え食料難及び寄生虫による栄養失調、結核の蔓延と衛生状態は極めて劣悪であった。戦地に赴いていた医師も復員し地域医療に取り組み始めた。新しいサルファ剤、ペニシリンを先導に占領軍とともにまばゆいばかりの米国医療が押し寄せるのはこれからであり、昭和21年11月3日新憲法が発効し、昭和22年10月31日占領軍指令により医師会は解散を余儀なくされ、同年11月1日改めて社団法人芦品郡医師会が設立されたのである。
過去百年の府中地区医師会の歴史をたどる企画の内、新憲法下で社団法人芦品郡医師会誕生までを担当したが、網羅したとは到底云えない状況で極めて不完全なものとなった。いずれこの骨格に多くの肉付けをして頂けるものと今後の解明、補足に期待し一応項を閉じることにする。正史と呼べるようなものは出来なかったが、できる限り年代順の記述に心がけた。漏脱は全て筆者の力不足によるところでありご容赦頂きたい。多くの方々のご協力を頂きながら、必ずしもそれらの方々のご期待に応えることが出来なかったこと、特に貴重な先生方の写真をご提供下さった縁戚のかたに資料不足のため、個別に並列出来なかったことを申し訳なく心からお詫びしたい気持ちである。
(楢崎靖人)
主たる参考資料
芸備醫事 第11巻 第12号(明治39年)〜第48巻 第12号(昭和18年)
日本医藉録 「広島県 芦品郡」(大正14年初版)(昭和5年)(昭和10年)
広島県医師会名簿 広島県医師会(大正14年)
広島原爆医療史 (財)広島原爆障害対策協議会 (昭和36年)
広島県医師会史 広島県医師会(昭和41年)
広島県警察百年史 上巻 広島県警察本部(昭和46年)
安芸郡医師会史 安芸郡医師会(昭和52年)
三原市医師会史(1) 三原市医師会(平成7年)
府中市の人物伝(上) 杉原茂著 府中市民タイムス社(昭和60年)
府中市の人物伝(下) 杉原茂著 府中市民タイムス社(平成元年)
石碑の人々(上) 桑田章治著(もとやま2号)(昭和57年)
甲斐玄硯翁資料集 藤木英太郎著(もとやま4号)(昭和58年)
府中総合病院創立五十周年記念誌 府中総合病院記念誌編集委員会編(平成7年)
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