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藤野昌言守誠は天保3年(1832年)10月12日府中町朝日町の現在の「備後屋」の建物で開業医藤野元英の長男として生まれ、大阪で医術の修業中(学んだ施設及び師は不詳註1)、父親の死により19才で家業を継承している。明治12年(1879年)全国的に流行したコレラの治療に専念し、自らも感染、同年10月6日48才で逝去した。葬儀は神道にのっとり行われたが、我が身の危険も顧みずコレラ患者の治療に邁進し職に殉じた医師の死に直面した近隣の人々は深く感銘し・時の芦田郡長鶴岡耕雨の許可を得て同年11月に藤野家の土地、才田に昌言を祀る「祠堂」を建て「若宮」と呼び感謝の気持ちを表した。この「祠堂」は藤野家では「古香堂」と呼ばれるようになった。その後出口の羽中にある藤野家の土地に移され、大正15年註2羽中の土地を公園にしたいという町の意向により「古香堂」の管理を府中町に委託することで藤野家は羽中の土地を町に寄付された。戦後は「郷土史研究会」が管理を継承し、毎年10月6日昌言の命日に「藤野神社祭礼」が行われ、縁者が集い遺徳を偲んでいる。因みに昌言の墓は金龍寺東方の石井に建てられたが、昭和49年、道路拡張工事のため現在では見晴台に移転改葬されている。 註1:適塾との説もあるが弟の内海卓爾が適塾で学んだことは適塾の資料で検証されているが昌言に関しての資料は見当たらない。 |
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![]() 以下の記述は「首無地蔵菩薩」のページの中の歴史の小径 藤野国手詞堂記を、このページの作者の許可を得て掲載しました。
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| 病人が医者に診てもらうのは、その土地によって非常に違ってその幸、不幸ははなはだかけはなれている。都会には王侯将相や豪商がいる。もし病気にかかり治すために名医に診察を請うことも出来る。慶安の頃、奈良玄竹は閣老堀田正盛の重症を治して謝礼として二千金を受けたというのは特別のこととしても、医者が病人を治すことが多ければ多い程有名になり、いよいよ繁盛し黄金や絹が山積される。医者たるものは誰でも都会に出て、物が寄り集まってくることを欲しないものはない。 そして病人もまた名医に遇い易い。これは大変幸せなことである。ところが遠い片田舎ではそうはいかない。田舎には金持がいないことはないけれども、元々貧しい人が多く富める人は少ない。 それに加え名医は大変少ない。ちょっとした病気ならば深くおそれることもないが、伝染病が身にせまって来たときには、手をこまねいて死を待つのみである。 巳卯夏秋(明治十二年の夏から秋)にコレラが蔓延し全国的に流行して家ごとに多く死亡した。医者も感染を恐れて巧みに避け、いつわり逃げた。金持ちの家であっても赴くこうとしなかった。まして貧乏人の家はなおさらのことであった。 只一人藤野君ふんがいして言うのに、医術は本来今日のためにあるのだ、我が義のために身を虎口におく。安逸を好み労をいとうて座視することはできようか。ここにおいて日夜駆けずり廻って治療し寝食のいとまもなかった。郡内いたるところをめぐった。住民は昌言を頼りにし死をまぬかれる者が多かった。皆昌言のお陰である。伝染病の勢いがやや衰えかけたとき君は十月六日、四十八才で没した。けだし君はコレラ患者に親しく接することが多かったためについにこの災厄にあった。あたかも敵を皆殺しにするまで戦う士が、強敵をものともせず乱刃の下にたおれるがごときであった。ああ身を忘れて業を敬ったことをほめたっとぶべきことである。 昌言が職に殉してより数日後、葬式は神式によって営まれた。郷土の人はその人徳を慕い、その業績を後世に残さんと相はかり、碑文を五弓雪窓に依頼し、時の郡長鶴岡耕雨に願って、府中町の才田に碑を建てた。 昌言は漢方と洋風を適当に塩梅して、一方にかたよらなかった。要は人を活かすことを主眼とした。親から教育を受け、学問の造詣深く議論も傑出し、詩文やかきものに観るべきものがあったが、往診や治療に忙しくて寸暇なく著作は少ない。 また昌言は生まれつき経済に長じ、父祖の財産を十倍にふやした。しかしこれはみな清廉な財産で、決して悪どい儲け方ではない。平生から人が窮しておればあわれみうれい、人が患っておれば守り防いでやり、周辺すみずみまで難易をおそれず、力の限り援助してやった。そのためおのずから人々に侠医と言われるようになった。 |
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藤野国手詞堂記の「詞」について
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