甲奴郡医師会は平成9年4月府中地区医師会と合併し、遂にその100余年にわたる歴史に終止符が打たれた。この府中地区医師会100年記念誌発刊を機に、甲奴郡医師会の歴史をたどってみたい。
 資料として、旧甲奴郡医師会員最長老でおられる濱保先生にお借りした甲奴郡医師会創立100周年記念写真は昭和63年(1988年)11月に撮影されている。そうすると1888年、すなわち明治21年が甲奴郡医師会創立となる。しかし、残存する資料は明治44年が最も古いもので明治21年創立という証拠は見つけられなかった。この昭和63年には北部地区医師会創立100年と同時に記念式典が行われているので、北部地区医師会にも1888年に医師会が創立されたという記録が残っていないか問い合わせてみたが、これもはっきりとした証拠がないまま記念式典が行われた可能性がある。おそらく、甲奴郡医師会の発足を明治21年としたのはこの明治21年4月28日に広島県令甲第63号によって医会規則が公布され、各郡市はそれぞれ医会を設立していった。多くの郡市医師会はこのときに設立されたと考えられるからであろう。
 現在甲奴郡医師会として残っている資料は、明治44年から大正3年まで、甲奴郡医師会長三玉彌壽二先生時代の医師会々議録と資料、昭和33年からの井口利夫会長時代の行事記録簿と医師会入会名簿、平成2年からの高橋会長の議事録である。井口会長の記録簿には昭和33年4月から昭和54年までの記録が克明に記されている。それ以外の資料としては、この100年誌を作成するにあたり集めた資料、即ち大正14年のわが国最初の医籍簿写し、県医師会に残っていた明治39年から昭和17年までの芸備医事およびその会員名簿、広島県医師会史、昭和31年からの2年おきの医師会員名簿などである。従って創立当時から明治43年まで、大正3年から昭和31年頃までのことは、会員名はおろか歴代医師会長名も定かではない。ただし、昭和9年からの医師会長、副会長名は広島県医師会史で拾うことができた。従って大変残念ではあるが、判明した範囲内でのみ以下に甲奴郡医師会の沿革について記すことをお許しいただきたい。

甲奴郡医師会沿革
・1888年(明治21年):甲奴郡医師会(甲奴医会)創立
・1903年(明治36年)3月:第1回郡市聯合医会開催
(児玉善一会長)
・1907年(明治40年)11月21日:甲奴郡医師会設立
(省令医師会:三玉彌壽二会長)
・1919年(大正8年)1月20日:甲奴郡医師会設立
(法定医師会:三玉彌壽二会長)
・1933年(昭和8年):森原一恵会長選任
・1936年(昭和11年):熊谷藤吉会長選任
・1938年(昭和13年):三玉正雄会長選任
・1943年(昭和18年):八谷亮造会長選任
・1947年(昭和22年):妹尾邦人会長選任
・1950年(昭和25年):山廣信泰会長選任
・1955年(昭和30年):赤木武夫会長選任
・1958年(昭和33年):井口利夫会長選任
・1961年(昭和36年)9月2日:社団法人甲奴郡医師会
              設立(井口利夫会長)
・1980年(昭和55年):百谷茂樹会長選任
・1982年(昭和57年):三玉久雄会長選任
・1990年(平成2年):高橋吉雄会長選任
・1997年(平成9年):解散、府中地区医師会と合併


[明治〜大正時代]
 甲奴郡医師会の歴史を辿る最も古い資料は、明治39年からの芸備医事の会員名簿であり、これには甲奴郡として6名の医師名が掲載されている。また、甲奴郡医師会独自のものとしては明治43年から大正3年までの資料を、ごく最近運よく手に入れることができた。山添先生の曾祖父にあたる当時の甲奴郡医師会長、三玉彌壽二先生所蔵の資料であり、三玉医院、山添院長より古い資料が見つかったと届けていただいたものである。
それを見ると1冊は文書綴りで、明治43年4月甲奴郡役所から、甲奴郡医師会長三玉彌壽二先生に宛てた墨書きの公文書で始まっている。内容は4月12日発医師会に関する件、4月25日発医師会開会、並びに種痘法規説明に関する件として、文中に種痘法、明治43年4月法律第35号とある。種痘法はこの頃できたのかと感慨深いものがある。
 更にめくると領収書がある。甲奴郡医師会から各会員に明治43年春季医師会出会手當金として50銭が支払われている。また明治43年9月28日、芳村 晋、呉市医師会長から甲奴郡医師会長宛に文書が来ている。現代かな使いに直すとおおよそ次のようなものとなる。「縣医師会設立に関しては昨冬来打ち合わせをし、目下2市9郡の書類が完結したが、2郡は不備であり、照会中である旨」。その後、同年12月7日、廣島縣知事 宗像 政より、「指令衛第5482号 廣島縣医師会設立発起人 惣代呉市医師会長 芳村 晋 明治43年10月27日付申請廣島縣医師会設立の件認可ス」とあり(写真1)、この次のページから9章からなる廣島縣医師会会則が綴られている。第6章、役員のところは、会頭1名、副会頭1名、理事5名となっている。会長という名でないのが面白い、郡市医師会長と区別するためであろうか。「広島県医師会史」をみると、翌明治44年3月26日、呉市において広島県医師会設立発会式が行われ、甲奴郡医師会からは冨永壽一郎先生が出席され祝詞を述べられている。大正元年の県医師会費の領収書に廣島縣医師会会頭芳村 晋とあるので、初代会頭は芳村 晋先生と思われる。ちなみに甲奴郡の県医師会費は明治44年度分17円、大正元年分8円と領収書にあるので、県医師会費は当初1名分1円、大正元年から50銭に値下げされたのであろう。
 もう1冊は明治45年からの甲奴郡医師会会議録である。最初のページに、明治44年4月21日午前10時、甲奴郡稲草龍興寺において医師会会議が開催されたとある。この時の会員は出席議員9名、即ち、森原一恵、池田穎従、妹尾邦人、豊川誠喜、山崎俊平、岡崎恭平、八谷 薫、秋山益美、須澤新右ヱ門の各議員。欠席議員9名、即ち、三玉彌壽二、冨永寿一朗、岡田治三郎、濱保秀良、伊達恕平太、陶山柳平、高橋直三郎、横山長九郎、入江恂治の各議員であり、この年の甲奴郡医師会員は18名であることがわかる。またこの会で新加入者として、入江恂治、須澤新右ヱ門の2名が紹介され、本県病院長より「プリスニッツ罨法に就て」と題して講話アリ、と記されている。
 また、大正元年(明治45年)10月15日、秋季総会が甲奴郡役所において開催され、岡田順造議員が新加入となり、総議員は19名となっている。本会における県医師会議員選挙で森原一恵議員が当選、また医師会長には三玉彌壽二議員、副会長には八谷 薫議員がそれぞれ当選している(明治44年の医師会費領収書には秋山榮、竹島伊祖、両名の名があるが、本会には認められない)。綴られている甲奴郡役所からの公文書は、大正元年からペン字、医師会員の領収書なども、このころからペン字がちらほら見える。墨書きの達筆がなくなり、時代の変遷であろうがなんとなく残念な気がする。
 この後の医師会員の移動に関しては昭和31年の県医師会名簿まで、詳細は不明である。「芸備医事」には明治39年から昭和17年までの会員名簿があるが、明治39年の6名はすべて前述の明治45年の18名に入っている。年会費3円で入会は任意なのであろう、明治42年の9名を最高に年々会員は減少している。昭和5年は三玉彌壽二、妹尾邦人、森原一恵の3名、昭和7年からは遂に三玉彌壽二会長一人だけとなり、昭和11年には名簿から消えている。残念ながらこの「芸備医事」は名簿の役はなさなかった。
「広島県医師会史」をみると、大正7年の甲奴郡県医師会員は15名登録されているとあるが、個人名は不明である。また、大正14年に我が国最初の医籍簿が発行されたが、その時の甲奴郡内医師15名は後述の医師名簿に掲載する。
 写真3.は筆者が偶然手に入れたものであるが、昭和8年甲奴郡医師会から、田総村(現総領町)の秋山益美先生に差し出された印刷物の封筒である、医師会の住所をみると、三玉医院内が×をされ、森原医院内となっている、おそらくこの時期、三玉彌壽二会長から森原一恵会長に代わったばかりではないかと想像される(県医師会史では森原先生は昭和9年4月、会長就任とある)。
 県医師会史では昭和12年度の甲奴郡の医師会員数は15名、医師会費は県医師会が一人3円、日本医師会(大正5年創立、初代会長は北里柴三郎)は2円と記載されている。また、戦後、昭和20年、21年度の県医師会役員名をみると、甲奴郡は山廣信泰先生である。昭和28年10月23日、国民健康保険実施15周年記念大会が行われ、妹尾邦人先生(甲奴・吉野)が県知事表彰を受けておられる。


[昭和30年代〜平成時代]
 昭和31年の県医師会名簿で甲奴郡をみると19名の名がある。以後敬称は省略させていただくが、医師会長は、赤木武夫(上下町・赤木医院・内科)。副会長、池田文暁(上下町・池田医院・外、産婦、初代上下病院長)。理事、中山正一(上下町・中山医院・耳鼻)、百谷茂樹(上下町・百谷診療所・内、小)、三玉正雄(上下町・三玉医院・内科)、三玉久雄(上下町・三玉医院・外科)、井口利男(上下町・井口診療所・内科)、妹尾邦人(上下町・妹尾医院・内科)、濱保良三(上下町・浜保医院・内科)、富永 天(上下町・富永医院・内科)、長 亨(上下町国保直営病院長・外、産婦)、大呂安雄(上下病院・内科)、安原正巳(上下町吉野診療所:上下病院分院・内科)、山廣信泰(甲奴町、山廣診療所・内科、産婦)、杉原 秀(甲奴診療所長、内)、藤野磊三(総領町、藤野医院・内科)、秋山一男(総領町・秋山医院、内)、瀬原美二(総領診療所長、内)、丹下智司(総領診療所、産婦)となっている。
 昭和33年の名簿では、会長、井口利夫。副会長、秋山一男となり、細川隆海(上下病院長)が新入会。また、昭和35年の名簿には妹尾弥生子(上下町・妹尾医院・内科)、相原正光(上下町・相原医院・産婦人科)、高橋吉雄(甲奴町・広定病院長・外、産婦)の3人が新たに加わり、山廣信泰先生が亡くなられている。また昭和36年の名簿には、西岡博輔(初代湯ヶ丘病院長)が、昭和47年には、窪地 裕(上下保健所長)が入会されている。
 井口利夫会長時代の行事記録簿を紐解いてみると、最初のページは昭和33年4月13日午後1時、甲奴郡医師会総会の記録である。場所は上下町の陶翠園で、出席14名、欠席3名である。議事録ではこのとき郡医師会長、および役員の選挙が単記無記名式で行われ、井口利夫会長が当選されている。副会長は秋山一男、理事には濱保良三、三玉久雄、中山正一の各委員が選出されている。また、昭和33年度の郡医師会費、2,800円が徴収され、新入会員として町立病院産婦人科細川先生の紹介が行われている。
 こ昭和34年10月創立総会が開催されている。
 さて、井口会長は昭和33年から昭和55年まで、実に23年間の長きにわたり医師会長を務められた。その後の歴代医師会長は、昭和55年から百谷茂樹会長、昭和57年から三玉久雄会長、平成2年からは高橋吉雄会長が務められ、最後の甲奴郡医師会長となった。

[甲奴郡内医療機関]
 甲奴郡内の医療機関について資料調査により明治時代後半は18〜19、また昭和12年には15の医療機関があったことがわかった。その後、戦中・終戦直後は資料の焼失などで詳細は不明なるも医療機関数が増加しており、昭和33年には国保上下病院、総領町立領家診療所、および甲奴町国保甲奴診療所の町立の3医療機関の他、12の診療所があった。また昭和36年には公立上下湯ヶ丘病院が開設され、当時2病院、14診療所が甲奴郡内にあり、全盛時代とでもいうべきであろうか。しかし、このころを境に、開業医の先生方は、亡くなられたり、移転や高齢を理由に次々に閉院され、減少の一途を辿っていったのである(後述の名簿を参照して下さい)。後継者がおられないか、またおられても過疎化の進むこの地に帰って来られない等も減少に拍車をかけた大きな要因であろう。
 ところで総領町には「総領町誌」が発行されており、第1章第二節に医療機関名が掲載されている。幕末からの歴代開業医として医科10、歯科1医療機関の存在した記録が残っているが、最も栄えたのは大正から、昭和30年ころまでのようで、4医療機関が活躍されていたようである(後述名簿参照)。とくに八谷医院は初代、八谷玄隆先生の1734年(享保19年)より八谷亮造先生まで8代にわたって診療に従事されたとの記録がある。しかし秋山一男先生の病気廃業により、昭和52年以後開業医は皆無となったようである。
 現在、甲奴郡内の医療機関は上下町に国民健康保険上下病院、公立上下湯ヶ丘病院と三玉医院。甲奴町に甲奴町国民健康保険甲奴診療所と高橋医院、総領町は総領町国保診療所のみ、即ち2病院、4診療所だけである。

[甲奴郡内公立医療機関]
 ここで公立の医療機関の歴史について少し触れておきたいと思う。
 国民健康保険上下病院は昭和18年、病床数15で開設され、初代病院長に池田文暁が就任、昭和24年に現在地に移転している。昭和29年の町村合併により、吉野診療所、清岳診療所を引き継ぎ分院としたが昭和33年休止。昭和39年には64床となり、増改築を重ね、昭和57年に結核病棟を廃止し、現在の110床の病院となった。この上下病院の発展には昭和43年から平成5年まで25年間院長として手腕をふるわれた加納 学先生の功績が大である。
 公立上下湯ヶ丘病院は甲奴郡3町で甲奴郡町立精神病院組合が設立され、初代院長に西岡博輔先生を迎え昭和36年に52床で開設された。以後、昭和37年に100床、昭和40年157床、昭和45年217床、昭和49年262床と矢継ぎ早に増築された。昭和63年現院長の仲地律雄先生が就任、平成4年には308床の大病院となり、入院患者は広島県全体に及んでいる。
 甲奴診療所は初代所長に杉原 秀医師を迎え、甲奴村国民健康保険甲奴診療所として昭和29年に開設された。昭和33年広定村との合併で、現在の甲奴町国民健康保険甲奴診療所と名称を変更している。昭和55年、長年勤務された杉原先生が退職されたあと李医師が着任されたが昭和58年に退職、その後継者難のため、御調国保病院(当時)に診療委託が始まったが毎日医師交替するという診療体制であった。昭和61年より公立みつぎ総合病院より自治医大出身医師が常勤として派遣されるようになり、この体制が現在に至っており、今年で18年目を迎えている。
 総領町国保診療所は、県立領家診療所として初代所長に岡部頼子先生を迎え昭和14年開設された。昭和28年領家村立診療所、昭和30年総領町立総領診療所と名称変更があり、昭和28年から昭和47年まで瀬原美二先生が長年診療された。その後、昭和51年羅先生が所長となられ、現在の総領町国保診療所となる。平成3年羅先生の退職以後は県立広島病院より自治医大医師の派遣を受け、今日に至っている。

(国民健康保険上下病院 横矢 仁 平成13年11月1日 記)

参考資料
1) 甲奴郡医師会文書綴(明治43年〜明治44年、三玉医院蔵)
2) 甲奴郡医師会々議録(明治45年、三玉医院蔵)
3) 医籍簿写し(大正14年、初版)
4) 甲奴郡医師会行事録(井口利夫会長 昭和33年〜昭和54年)
5) 甲奴郡医師会入会申込書綴(昭和33年〜昭和64年)